小さな散歩道

大田区立郷土博物館(大田区南馬込5‐11‐3)


宝?山古墳出土ヒスイ製勾玉

展示風景

大田区郷土博物館

 地下鉄浅草線終点の西馬込駅東口下車。地上に出て左の馬込文子村商店街を徒歩10分。大田区立郷土博物館で行われている「大勾玉展」(10月16日まで。月曜休み。休・祝日の場合は開館)を紹介。

  今年、大田区田園調布4丁目にある宝来山古墳(多摩川駅から徒歩15分)が東京都の史跡に指定されてから70周年、多摩川台公園古墳展示室が開室30周年を迎えたことを記念して企画された。


多摩川台公園内の古墳と勾玉が見つかった古墳
(大田区立郷土博物館提供)

  宝来山古墳は多摩川流域左岸の武蔵野台地上に古墳時代前期(約1700年前)に築かれた前方後円墳で、全長約100メートルと関東では有数の規模を誇る。副葬品として剣、鏡と一緒にヒスイ製の勾玉が4点出土している点に着目。勾玉のルーツに迫るため、全国約70の自治体と個人などを回り1500点の勾玉を集め、縄文時代から奈良時代までおよそ6000年にわたる勾玉史を通観できる「大勾玉展」を開催した。

  宝来山古墳から多摩川に沿って2キロ離れた下流近くに、宝来山古墳と同規模の亀甲山(かめのこやま)古墳がある。この2基の間の細長い台地上に大小8基の古墳群が連なる。特別展では、多摩川台2号基から出土した滑石(かっせき)製勾玉、5号基から出土した瑪瑙(めのう)勾玉も展示している。

 今から約7000年前の縄文時代に誕生した勾玉は、弥生時代になると形が定まり、古墳時代には最も盛んに作られ、奈良時代以降は急激に衰退していった。
  勾玉は何をモチーフにしているのかは諸説あるが、学芸員の斎藤あやさんは、イノシシや熊、海獣などの動物の牙をアクセサリーとする「牙玉」の方が早く出現しているところから、古くから示されている「牙玉説」が有力だと推測する。

  縄文時代の中期になると硬い石を加工できるようになり、後期になると硬いヒスイを材料とする緑色(青色)系の勾玉が作られるようになった。弥生時代になると勾玉の形が固まってきたが、頭の部分に3〜4本の線が刻まれているものが誕生する。古墳時代になると、この刻みのある勾玉はヤマト王権と関係の深い畿内地域の古墳を中心に、東北南部から九州まで広く分布する。
  大田区の「宝来山古墳」の勾玉には頭の部分に刻みが入っていないが、弥生時代の北陸地方で作られたヒスイ製勾玉が長い時を経て納められたもので、これは関東地方の他の有力な古墳と共通する。

 「倭の五王」たちが活躍した5世紀ごろの古墳時代中期に誕生し、6世紀の後期以降に増加する小さな勾玉を複数付けた「子持勾玉」を集めたコーナーも。「子持勾玉は祭祀に使われたと考えられますが、なぜ誕生したのか、どのように使われたのかなど、謎に包まれています」と斎藤さんは言う。

■大田区立郷土博物館 TEL:03‐3777‐1070

開館/9時〜17時
休館日/月曜日(ただし休・祝日は開館)、年末年始、その他に臨時休館あり
入館料/常設展は無料、特別展については要確認

 

(2022年10月掲載)  地図


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