小さな散歩道

丸子の渡し跡 (大田区田園調布本町)


ゴーと音を立てて走る東海道新幹線

川崎市と大田区の境界線を示す丸子橋上の表示

右のビルが国土交通省田園調布出張所

カラフルな丸子橋の歩道

 東急多摩川線の多摩川駅から鎌田行きに乗り、次の沼辺駅で下車。線路を渡って徒歩2分で多摩川の土手に。眼下には河川敷を利用した公園が広がる。右手にはブルーの2つのアーチが美しい丸子橋が見えた。左に見える東海道新幹線の橋を新幹線がゴーゴーと音を立てて走り去る姿が見える。


丸子の渡し跡の説明板

 さて、目的の「丸子の渡し跡」を物語るものはないかと見渡すが、それらしきものは見つからない。川べりで釣りを楽しむ人々、公園内の遊具で遊ぶおじいちゃんとお孫さん、ワンちゃんの散歩をさせる人々を見ながら上流へ。丸子橋(長さ406メートル、幅25メートル)を渡る。途中に掲示されている川崎市と大田区との境界まで行き、引き返した。近くに住む人に「丸子の渡し跡」を物語る碑などないだろうかと聞くと、「看板があるがそれだけかな」と。

  教えてもらった河川敷の公園入口(国土交通省田園調布出張所ビルの川側)に行くと、そのすぐ左に「大田区文化財 丸子の渡し跡」という案内板があった。1975(昭和50)年指定と大田区教育委員会の名前で書かれたものだった。

  その案内板によると、丸子の渡しは沼辺(現・田園調布本町)と上丸子(現・川崎市中原区)を結ぶ多摩川の渡しで、古くは「まりこのわたし」ともいった。渡し守りの「もりこ」がなまって「まるこ」となったとも。鎌倉時代の紀行文にもここの渡しの記述があるところを見ると、中世以来の渡しと推定されるとのこと。
  江戸時代に中原街道が整備されると、この渡しは物資の搬入に利用され、1934(昭和9)年、上流に丸子橋が完成するまで、江戸東京の玄関口として大きな役割を果たしていたという。


丸子橋

  沼辺駅から帰路についたが、もう少し「丸子の渡し」について知りたくなり図書館などで調べてみた。
  江戸時代初期には参勤交代の道路として使われ、秦野(現・秦野市)で生産されたタバコや大山(現・伊勢原市)の薪や炭などの搬入路としてにぎわったとか。そして多摩川の普通の水かさ(普通は1・5メートル)よりさらに1・5メートル増すと渡船の料金が高くなったそうだ。渡船は4月から10月までの時期に行い、水が少ない10月から3月までは長さ70メートル、幅1・8メートルの木の仮橋をかけていたこともあったようだ。この仮橋は江戸末期の寛政6(1794)年から明治13(1880)年までで、其の後は渡船が復活したそうだ。

(2021年2月掲載)  地図


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