小さな散歩道

円泉寺 (世田谷区太子堂3丁目)


太子堂右手にある聖徳太子像

本堂から社務所を眺める

大きな聖徳太子之碑の裏からネコが顔を出した

 


太子堂

 東急田園都市線・世田谷線「三軒茶屋」駅から茶沢通りの先にある、世田谷区「太子堂」という地名は、聖徳太子と関係があるそうだ。駅から10分ほど歩くと住宅街の中に「円泉寺」という真言宗の寺院があり、境内に聖徳太子を祀った「太子堂」がある。付近の地名はこの堂宇に因んでいるという。

  太子堂は遅くとも南北朝時代末期の頃にはあったらしい。伝承によると、久米寺(現在の奈良県橿原市)から聖徳太子像と十一面観音像を背負って、布教のため関東地方を訪れていた賢恵僧都が当地で一泊したとき、夢に聖徳太子が現れてこの地に祀られることを望んだので、堂宇を建てて太子像を安置したとされている。江戸時代後期の安政年間に火事で消失し、現在の太子堂は明治32年(1899)に完成した。大正15年(1926)には大改修が行われ、戦争中の空襲を免れた後、戦後二度の改修を経て現在に至る。

  境内に入って右手にある太子堂は壇上にあり、階段を上って参拝する。決して大きくはない堂宇だが、正面の扁額や四方に架けられた願掛けのような額などの中には、長年の風雨に晒されてほとんど文字が読めないようなものもあり歴史を感じさせる。
  檀家か地域の住民か、老夫婦が一組と若い男性がお参りに来ていた。堂宇の正面向かって右手には聖徳太子の像もある。


木の洞の中に、2枚の板碑型の庚申供養塔が
手前の庚申供養塔の下には「三猿」の絵が彫られている

  境内を出て外側の、円泉寺山門の横には、大きな聖徳太子立石碑がある。でも立石碑よりその隣にある庚申供養塔のほうが目を引く。大きな欅の古木の根元の洞に、二基の板碑型庚申供養塔が安置されている。もとは門前にあったものを、大欅を伐採した後に移したという。古木の前に、三猿の絵が刻まれた別の庚申供養塔もあった。
  江戸時代における庚申信仰は、便宜上前期・中期・後期に分けられるが、円泉寺のものはその前期に当たる貴重なもの。当時、円泉寺が地域の庚申信仰の中心だったことが分かる。

  明治になって、世田谷区内最初の小学校、荏原小学校が一時円泉寺に仮校舎を建てていた。また、円泉寺山門前の道をちょっと北に歩いたところに「放浪記」などの作品で有名な小説家・林芙美子旧居があり、その説明板がある。かつては隣に壺井繁治・栄夫婦も住み、若い頃の平林たい子も度々訪れていたとか。「太子堂」の地域は近代になっても地域の文化活動の中心だったようだ。

(2019年3月掲載)  地図


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