小さな散歩道

八景天祖神社と文士の銅版レリーフ (大田区山王2丁目)

 
(左) 天祖神社境内   (右) 文士たちのレリーフ/大正時代の終わり頃、大流行した麻雀カフェー

 JR大森駅西口の目の前にある「八景天祖神社」。改札を出るとすぐに見える“駅チカ”神社なのだが、近いからいつでも行けるだろうという気持ちと、鳥居まで48段ある急勾配の階段に阻まれ(?)、今まで行きそびれていた。
  今回、天祖神社に行ってみようと思った直接のきっかけは「おおた観光イラストマップ」(大田観光協会刊、2016年10月発行)に「文士の銅版レリーフ」が神社にあると書いてあったことだ。大田区は戦前、大森区と蒲田区に分かれていたが、その大森区といえば貝塚と並んで“馬込文士村”など、文豪のまちとしても有名。どんなレリーフがあるのか、ちょっと興味を持った。

↑ 文士村の説明プレート

 
(左) 神社南側の石垣にレリーフが並ぶ  (右) 階段の上からの眺め


文士たちのレリーフ。ここから階段を登り、順番に見学

尾崎士郎と宇野千代のレリーフ

文士村のモダンガール

  文士のレリーフは、神社南側の石垣にはめ込まれている。神社が高台の上にあるので、その高台の左側斜面、神社脇の階段になっている小道にある。 文士村成り立ちの説明プレートや文士村ゆかりの人々のレリーフが、時系列で順番に紹介されていてる。階段を登りながらゆっくり見ていくと、かつての文士村のことがわかる。

  説明版によると、今では閑静な住宅地となっている山王・馬込の地に、大正末から昭和初期に多くの文士や芸術家が住み、いつしか「馬込文士村」と呼ばれるようになった。
  その中心的存在が尾崎士郎と宇野千代。作家の広津和郎や萩原朔太郎夫妻、室生犀星、川端康成夫人などもダンスパーティーに参加していた。
  関東大震災の後、東京近郊へ移り住む人々が急増し、雑木林や大根畑が広がる馬込一帯も宅地化が進み、景観が大きく変わった。時代は大正デモクラシー期。洋装のモダンボーイや断髪姿のモダンガールの間で、ダンスホールや麻雀カフェーが大流行した。
  流行が去った後1931年(昭和6年)には「大森相撲協会」が発足、池上本門寺の裏手に土俵を作り、相撲大会を開いた。

  レリーフがある八景天祖神社は、江戸時代、元禄年間(1670年)に地元の庄屋や年寄り百姓が伊勢神宮に参拝するための伊勢講をつくったのが始まりとされている。江戸時代は「神明社」と呼ばれていたが、明治期の神仏分離令により「天祖神社」と改名した。戦争中、空襲で本殿が焼失したが、戦後1953年(昭和28年)残っていた神楽殿を解体、本殿を再建した。

  境内はこじんまりしているが、立地の便利さもあってか、次々に参拝客が訪れる。急勾配の階段に怯むことなく、文士レリーフを見に行ったら、歴史ある神社へも参拝したい。

(2018年1月掲載)  地図


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