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東急多摩川線沼部駅から「さくら坂」方面へと歩いた。六郷用水、東光院を過ぎてすぐ右へ向かう道の入り口に「おいと坂」と書かれた木の標識が立っている。「おいと」とは、いかにも町娘のような名だ。てっきりその昔、このあたりに住んでいた娘さんにまつわる悲しい言い伝えでもあるのだろう、と思っていたら、どうやらそうではなさそうだった。
標識の側面に小さな字で、そのいわれらしき説明があった。『大森区史』に記述があるそうで、それによると、鎌倉時代の武将である北条時頼が行脚して中原に来たが、病気にかかり重症となった。井戸があったので、その水を使ったところ、程なく全治したという。
その井戸というのが、沼部に一つ、中原に一つあったそうで、後に中原の井戸を沼部に移し雌井(めい)、雄井(おい)と呼んだそうな。「『おいと坂』はすなわち『雄井戸坂』のことであろう、と記している」とあった。つまり、気の優しい娘が険しい坂道を重い荷物を担いで運ばされ、ついには体を壊して死んでしまうといったような、よくありそうな切なくも悲しい話などではなく、病気の人を癒してあげた井戸の言い伝えだったのだ。
あたりを見渡したが、特に井戸らしきものの形跡はない。坂は100メートルほどで、緩やかに上に伸びている。坂の両側は民家や修道院などが立ち並び、井戸があったであろう往時とは、まったく趣を異にしていた。
(08年9月掲載) 地図
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