小さな散歩道

中神坂と防空壕跡(昭島市中神町1-3付近)


中神防空壕跡

左の白い四角いところも防空壕の出入り口で、
右の中神防空壕と中で繋がっていたと思われる。

福厳寺入口

 立川駅北口から奥多摩街道を走る「拝島駅・拝島操車場・福生営業所」行きなどのバスに乗って「中神」で下車。バス停から奥多摩街道を少し東に進むと、三方を高い石垣に囲まれた「中神坂」交差点に着いた。

 中神坂交差点の西側にそびえる福厳寺の石垣には、戦時中に使用された防空壕の入口が残されている。「昭島にも空襲があった」(2003年昭島市発行)によると、この防空壕は戦争末期の昭和19(1944)年暮れに地元の警防団が掘ったとされる横穴状のもので、内部には20人位が入ることができたという。また、昭和20(1945)年4月4日未明の空襲により、この防空壕の入口付近で警防団員が1人死亡しており、中神地区全体では18人の犠牲者名が確認されている。この防空壕は、昭島の代表的な戦争遺跡だ。

  以前からここを通るたびに気になっていた高い石垣の端にポツンとある小さな扉だったが、防空壕の入口だったとは驚く。金網が付いた黒い扉には鍵がかけられているが、この扉は後になって取り付けられたものだと思われる。
 入口の大きさは大人1人がなんとか入れる位だろうか。金網の隙間から中をのぞいてみると、コンクリートで入口に蓋がされていて、内部をうかがい知ることはできないが、当時の人々は暗い壕の中で不安な時を過ごしていたのだろう。防空壕の入口前に立ち、「ちょうどこの辺りで空襲に遭ったのだな…」と思うと、なんともいえない気持ちになってくる。

 またこの防空壕は、当時西の角にあった別の防空壕と奥でつながっていたようだ。石垣が途切れた西の角を見てみると、壁面に白いコンクリートで蓋をされたような場所があった。もしかすると、これが西側の防空壕の入口だったのかもしれない。

 交差点に戻り、石垣上に建つ福巌寺に向かう。福巌寺の創建は寛永元年(1624)で、本堂手前には「中神の教育発祥地(中神学校のおこり)」と記された石碑が建っている。白壁と波打った形状の屋根が印象的な本堂だが、福巌寺も昭和20(1945)年4月の空襲で大変な被害に遭っており、この本堂は戦後に再建されたものだそうだ。本堂の上部には、安寧な世の中を祈願するようにお釈迦様が鎮座していた。

  なお、奥多摩街道は大変交通量が多いため、見学する際は往来する車によく注意されたい。

(2023年2月掲載)  地図


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